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スポーツの力ってなんだろう

小学生くらいの時から「みんな」とはちょっと違うかもしれないと感じていたような気がする。

漫画と小説とアニメとゲームが大好きで、音楽もまぁそこそこ好きだった。

ものごころついた時からぽっちゃりというかおデブちゃんだったし、ちょっと記憶にあるだけでも、逆上がりはできず、球技などでは足を引っ張るのが常だった。

友人たちは優しかったので、それで仲間外れにされるようなことはなかったが、それでも自分が”うまくできない”競技はあまり好きではなかったように思う。

習い事として水泳に通っていたので、水泳は嫌いじゃないが、”選手コース”に進むかどうかという段階で辞めた。

その時点では言語化できていなかったが、おそらく人と競争することが前提になっていながら、自分には人と競争しても勝つことができないと分かっていて、それが嫌だったのだ。

一人で黙々と身体を動かしたり、誰かと楽しむためにスポーツをするのは嫌いじゃないけれど、それが競争になったとたんにやる気を失う。

2021年7月10日現在、東京オリンピックは「スポーツの力」を信じて開催されるらしい。

乗り越える ~「スポーツの力」をすべての子供たちへ~

オリンピック・パラリンピック教育は、大会そのものへの興味関心の向上のみならず、スポーツの意義、国際・異文化、共生社会への理解を深めるなど、多面的な教育的価値を持つ取組です。

スポーツ庁 HP

「スポーツの力」をすべての子供たちへとうたっている割に、「スポーツの力」が何なのかについては記載がない。

「スポーツの力」で検索をしても、昨今の政治家がオリンピックの意義としてその言葉を使っているものの、「スポーツの力」が何なのか、その力によって何が変わるのかが例示すらされていない。

新型コロナ感染症の新規感染者数が再度増えつつあり、緊急事態宣言が発令されるらしい。

そして緊急事態宣言が発令されていてもオリンピックは開催される模様で、その意義の一つは「スポーツの力」を発信するためだという。

それなら「スポーツの力」とは何なのかを言葉を尽くして説明してほしい。

スポーツが苦手・苦手だったという人間だっている。

今現在だってスポーツそんなに好きじゃないけど自分が納めている税金がオリンピックのために使われていく事態が嫌だと思っている人間もいる。

日々の鍛錬を怠らず、その勝負の日にコンディションを合わせて競技に挑むアスリートの姿は尊いし、それを見て感動することはある。

しかし、私はそこから「スポーツの力」を感じたことはない。

素晴らしい努力を讃える事は惜しまないが、それによって自分の行動が変わったことはおそらくあまりない。

風が吹けば桶屋が儲かる的理屈で今までに私の人生に対して影響が出ている可能性は否定できないが、自分自身の考え方が変わるほどの衝撃は、漫画や小説やゲームや映画や音楽から受けてきた。

それと、友人との語らいと。

一般人の対面での接触機会に対して「自粛要請」する一方で、「スポーツの力」のために世界最大級のスポーツの祭典は行われる。

その意義は広く納税者に理解されるように言葉を尽くして対話するべきだと思うが、現在のJOC/政権/東京都からはその姿勢を感じないどころか対話を拒絶して「自分たちがやると決めたのだからやるのだ。自分たちがスポーツの力を信じているからスポーツの力は存在し、意義深いものなのだ。詳細は説明しなくてもわかるでしょう」という態度に見受けられる。

今日のブログにはオチもまとめもない。

今日の一言

非常に悪い言い方だけれども、「スポーツの力」を信じている人たちは、「スポーツの力」というものを別の言葉で表現してみようとすらしない、いわゆる脳筋の人たちなのではないかとすら思う。

「一流アスリートの活躍を見たらみんな感動する」とか「感動したことによって、自分も頑張ろうという活力がわいてくる」とか「一人で行う競技でも、そのアスリートを支えるために多くの人が関わっており、チームワークの大切さを感じることができる」とか、言葉にしようと思えばいくらでもそれっぽい言葉にする事ができると思うのだが、それすらしないってどういうこと・・・

まあ、言葉にしたところで揚げ足取られちゃう世の中ではあるけれど。