コロナ禍を1年過ごして
コロナ禍を1年過ごしての変化を考えてみる。
仕事・職場の人間関係
会社への通勤ストレスは激減
雑談の消滅によるフラストレーションは増加。情報は自分から取りに行かないと入手できない
今まで表面上仲良くできていたような薄い関係は消滅。2週間ほど前に部門の人たちで飲み会したらしい。お誘い受けなかった。誰が企画して、誰が誘われて、誰が参加したのか知らなかった。たまたま会社に出勤したときに聞いた雑談が無かったらそんな事実すら知らなかった
見た目や態度で勝手に判断されて噂話をされる事は減った(たぶん)
誰と誰が情報を交換しているのかを視覚で確認する事はできなくなった
趣味・ストレス発散
人が大勢集まってしゃべって飲食しているところを見ると「良いのか?」という感情が沸き上がる
飲み会をしていたと聞くと「大丈夫か?」という感情が沸き上がる
仕事は変わらず存在し、気分転換の手段や趣味やコミュニケーションは制限され、自分は自粛していても【自粛していない人々】によって感染者数が増えた場合、またさらなる制限が加わる
結果として「行動が制限されないうちに自由な行動をした方が良い」みたいな考えが頭をよぎることがある
結果、自粛ちゃんとしている人にとってディストピアじゃない?
ユートピアが「ここにないところ」という原意から「理想社会」をさすのに対して、逆ユートピアは、その反対語(anti-utopiaということばも存在する)であり、否定的に描かれたユートピアを意味する。
コトバンク
単純に、生活のために仕事をして収入を得なければならないが、楽しみが単純に少なくなった。
その楽しみを取り戻すためには自粛をして新規感染者数を減らして、医療機関の負荷を減らさなければならないらしいが、現実問題として自粛している人と自粛していない人がいる。
「自粛している」も人によってレベル感が違う。
マスクしてても鼻だしがデフォルトみたいになっている人もいる。
「友人と会って話す」機会がすごく減ったが、自分が自粛をしていたところで、緊急事態宣言が出されていても新規の感染者数は380人程度で下げ止まり。
新規陽性者における接触歴等不明者の割合は増加傾向。つまり「誰からウイルスがうつされたのかがわからない人が多くなってきているという事」
東京都の新型コロナウイルス感染対策サイト 2021年4月3日のスクリーンショット
自粛によって「自主的に楽しみを制限している」自分がいる一方で、「自粛を軽んじる人々」は楽しみを享受している状態があるという不公平感。
自分が自分の楽しみを我慢して自粛をしていても、「元の生活」に戻るまでの期間が短くなる見込みがないのであれば自粛をする意味が個人的に見いだせなくなってきている。
正直つらい。これがディストピアってやつかなと感じている。
今日のボキャブラリー
出口の見えないコロナ禍の状況が逆ユートピア・ディストピアであると感じてそれを文章にしてみようと試みたが、文の構成としては今一つ納得がいっていない。かっこいい響きの言葉を使ってみたかっただけ、みたいな印象になっているかもしれない。なかなか難しい。